神社名 |
三島大明神 |
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ふりがな |
みしまだいみょうじん |
宮司名 |
横田 昌司 |
電話番号 |
089-994-0751 |
神社主な祭礼 |
10月10日 例祭 |
神社主祭神 |
大山積神(おほやまつみのかみ) |
神社由緒 |
和銅五年八月二十三日、元明天皇の詔勅により越智宿禰玉澄が国内九十四郷に一郷一社の三島宮を造営し各郷の総鎮守と定め四時の祭事を厳粛に行わしめたが、当社はその一社に数えられ、爾来、粟井郷の一宮総鎮守として尊崇された。 社殿造営にあたっては卜占により社地をさだめ、社殿の意匠・様式などは大三島の大山祇神社を模範とした。規模も現在よりも大きく壮大であった。 粟井荘の成立にともない本谷に公文所が置かれると、当神社は鎮守神として仰がれるようになり、荘園領主より奉幣を受けた。 天慶五年に河野好峰が新たに神殿社殿を造営したが、治承年間に額入道西寂が備後の兵を率いて河野氏を攻めたおり社殿・神宝など兵火にかかり焼失した。其の後、文治二年八月に河野通信が神殿社殿を再建した。また、元冦に際し、文永十一年・弘安四年に河野通有・同通純が神領を奉って戦勝を祈願し、建武三年十一月には河野対馬入道善恵が神殿社殿を修理、神領を奉った。以後、河野・南・須保木・栗上・二神氏等が厚く尊崇した。 近世、多くの社地が没収のうえ、規模も大幅に縮小され、往時を偲ぶべくなくなったが、三嶋大明神宮と称し旧粟井郷二十五カ村の総鎮守として、大洲領主、替地の後は松山領主より代々奉幣を受ける。弘化二年本殿、翌三年拝殿を松山領主従四位下松平隠岐守定穀・神主従五位下横田佐渡守政富により造替。また、遷座祭のおり葵紋付提灯の奉納があった。 近代、神田は上知され、宮号の停止により三島大明神と改称する。後、内務省の所管となり、明治三十九年勅令九十六号に依り神饌幣帛料共進スル事ヲ得可キ神社に指定される。 |
神社鎮座地 |
松山市本谷甲375.376 |
氏神地域 |
〒799-2456 松山市本谷 〒799-2454 松山市客 〒799-2453 松山市麓 〒799-2452 松山市平林 〒799-2451 松山市小川谷 〒799-2455 松山市常竹 〒799-2462 松山市久保 〒799-2461 松山市鹿峰 〒799-2460 松山市苞木 |