神社名 |
高忍日賣神社 |
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ふりがな |
たかおしひめじんじゃ |
宮司名 |
後藤 正宜 |
電話番号 |
089-989-6238 |
神社主な祭礼 |
1月1日 歳旦祭 2月11日 祈年祭 4月29日 春祭 8月 2日 虫干祭 10月13~15日 例祭 11月23日 新嘗祭 |
神社主祭神 |
高忍日賣大神(たかおしひめのおほかみ) |
神社境内社 |
素鵞神社 若宮八幡宮 夷子神社 七生稲荷神社 天満宮 金刀比羅宮 生目八幡宮 奈良原神社 天照皇太神宮 産土社 |
神社当社ホームページ |
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神社御神徳 |
安産 子育て 縁結び 子授け 出世 交通安全 病気平癒 長寿息災 家内円満 厄除け 商売繁盛 |
神社特殊神事 |
1月 1日 歳の口明けの神事 8月 2日 虫干祭 |
神社由緒 |
高忍日賣神社の御鎮座がいつのことかは明らかではありません。当社は、伊予国伊予郡(現在の伊予郡とは多少異なる)に位置します。当社の南の山地頂上部から麓の扇状地や河岸段丘、さらに平野部にかけて多くの大小古墳があり、また集落跡や大規模な祭祀遺跡も発掘されています。これらのことは、伊予郡に有力な指導者が存在したことを証明しており、恐らく当社の御祭神もその有力者だったのでしょう。 当社は、古代より皇室のご崇敬殊の外に厚く、飛鳥時代には、聖徳太子が道後に来られた際に立ち寄って参詣され、神号扁額を奉納されました。 奈良時代には、神社の前を三千坊、神社の裏を千坊と呼んで境内八町余に及び、神領は伊予郡一帯に拡がりました。 平安時代には、醍醐天皇の延喜年間(901~923)に成立した延喜式に、国がお祀りする神社が記されており(延喜式神名帳)に、当社の名前が記載されました。このような神社は、延喜式内社、又は単に式内社と呼ばれ、現在でも格式高いお社として重視されています。また、正三位の神階奉授があり、「高押穂明神」とも称され、勅使・国司の参向が度々ありました。 鎌倉時代には、高忍日賣若宮八幡宮と称し、征夷大将軍源頼朝公から神領76町を寄進され、また神社の北東(鬼門)と南西(裏鬼門)にある夷子(えびす)社では月3回の市(三斎市)が開かれ、多くの人々で賑わいました(この夷子社のことを、上市夷子、下市夷子と呼びました)。社家は武士団を形成して朝廷にも重視され、南北朝時代には、南朝方に属して南朝興隆のために尽くし、後村上天皇から勅使左少弁を遣わされて、当時の神主藤兵衛(とうのひょうえ)に神領安堵状が授けられました。また、豪族河野(土居)通景から神領や武具等の寄進がありました。 室町時代には、夷子社で開かれていた市も月6回の六斎市となり、大いに繁栄しました。戦国時代になると、戦国大名の富国強兵策により、神領を失い、商工業者は城下町に集められ、市は急速に衰えました。ただし、この市は当地方の需要のために江戸時代の寛文年間(1661~1673)までは当社に市の設立の免許が出されていました。 江戸時代には、歴代松山藩主の崇敬厚く、藩の祈願所として安産、厄除け、五穀豊穣、祈雨、祈晴等の祈願が行われ、また松山藩鎮護の社・伊予郡総氏神の社として藩主、代官、大庄屋等が祭礼に参列し、現在も藩主代官詰所が残っています。なお、嘉永3年(1850年)に上棟された松山城天守閣の丑木は、当社境内の北西隅にあって温泉郡の川内からも見えたという大松が使われました。また、境内の古井戸は旱魃(かんばつ)にも涸れることがなく、この湧水を飲むと子宝に恵まれるとされ、女性に信仰されています。清宮貴子内親王ご生誕の際には、皇室御産婆より安産御祈祷の御依頼がありました。 境内には三輪田米山や加藤高明、武市庫太、林銑十郎等の書を刻んだ記念碑や、全国的にも珍しい四季農耕図等の絵馬の傑作が多数あります。 |
神社神職常駐 |
あり |
神社鎮座地 |
伊予郡松前町徳丸387 |
神社駐車場 |
有 |
氏神地域 |
〒791‐3163 伊予郡松前町徳丸 |